続・阿波日記

石海峡大橋が開通して今年で10年になるという。開通当時は場違いな印象を与えていたであろうこの鉄の塊も、10年の歴史がそこここに刻まれそれなりの威光を放っている(件の“窓際”のお陰でこちらはその威光を堪能できていないが)。長距離バスが恐らくその絶景の挿し色となるころ、私は音楽を聴いていた。Coldplayだった。


Coldplayといえば、先ごろ発表された4枚目の作品が企業のCMに使われ、しかもその出来がすこぶる良かったためか一気に日本のお茶の間レベルにまでその名を知らしめることに成功したイギリスの4人組。保守的なアイデアや目に余るセレブ崇拝主義的な側面を嫌った一部の評論家からは酷評されているものの、私はこの作品をあまり悪く捉えておらず、むしろ積極的に擁護したいタチの人間である。


なぜか。それは、この作品が例えるならば“なんだかんだ言いながら結局のところ紅白を観てしまう大晦日の感覚”をもっているからである。純粋に美メロであり、いつものように暗い曲調が大半を占め、歌謡曲的な曲構成が目立つ。ここまでならば三流にも作れる。だがこのバンドはこの作品においてその定石を打破しようともがき、そしてそれにことごとく失敗している。1枚を通して聴き終わると『本当はもうワンランク上のことがしたいのだろうな』と思えて愛らしいのだ。極端な転調や独立した2曲が1つの曲に押し込められているなどのチャレンジは、彼らが投げうる最も果敢な変化球であり、それらが中途半端な仕上がりにとどまっている点が本作の魅力だと思う。変わったことや奇妙奇天烈を装うことは案外簡単で、それをさもオリジナルであるかのようにのたまうHadouken!やLate Of The Pierなどの一派は世間でいわれる以上に脳ミソが小さいのだろう。少し脱線したが、要は特別なものにしようと意気込んだが結局普通に落ち着いた一連のプロセスが見て取れるColdplayの最新作は、それだけで人間の味がするし変人の何万倍も存在する普通の人がダイレクトに共感できる良い例なのではないだろうか。


先だって観た舞洲での彼らの演奏はやはり圧巻であったし、その直前にステージに立ったAlicia Keysを目当てに来ていたと思われる少しやんちゃそうな男女のグループが鼻を垂らしながら立ち尽くしているさまは痛快そのものだった。やはり彼(彼女)らもやんちゃそうではあるがごく普通の人間で、そうした人達を一音で立ち止まらせることのできるバンドはColdplay以外にそう多くいるわけではない。


そんなことを考えている私の目的地では、ちょうど阿波のおどりが開催されている。これもやはり普通の人達へとダイレクトに突き刺さるリズムと音色を持っている。蜂須賀家政の一言で始まったとか、精霊踊りや念仏踊りがその起源であるとかのうんちくは面倒なので譲ろう。なにしろ10年ぶりなのだから。