阿波日記

の休み、日本の津々浦々で帰省ラッシュは発生するが、郷里を目指す者と郷里を離れる者とが入り乱れる稀な路線がある。関西や関東、そして阿波の言葉が飛び交う車中、通路をはさんだ隣の席にはどちらも能面のような顔をした母子が腰掛けていて、その男の子がさっきからギャアギャアと騒ぐので少し不快だった。


もともと長距離のバスは好きなほうで、途中で寝るようなことはほとんどなく、窓越しに過ぎる景色を眺めるのが密かな楽しみでもあった。ところが今回は時期が悪く、窓側の席を確保できていない。おまけに窓から差し込む日差しを気にしてカーテンを閉めたがる大馬鹿者が隣にいたため、これもまたこちらの気分をひどく害した。思うに長距離のバスというものは社会の目とそれに対する遠慮のすべてがつめ込められた、一種の模擬社会のような性質を持っていて、その算段でいくと通路側の席は社会的弱者そのものなのである。


これは見知らぬ他人どうしが偶然乗りあわせた場合のみ成立する構図であるが、例えばいまのように通路側に座った人間がいくらカーテンを開けておいてほしいと願ったところで、カーテンの主導権をにぎる窓側の人間がカーテンを閉めておきたいと思えば、カーテンは自ずと閉まるのである。その逆も然り。通路側の人間からすれば、隣の人間にカーテンを開けさせるための社会通念的に筋の通った理由を持ち合わせていないため無理やり開けることもかなわず、仮に『カーテンを閉めてもいいですか?』の一言があったとしても、『ダメだ』とは絶対に言えないのだ。


またこれは経験測ではあるが、カーテンを閉めたがる窓側の人間にも景色を楽しみたいタイミングが必ずあって、そのときだけ彼らはカーテンを少しめくって自分だけ外を覗き見する。人間がコソコソと自分の既得権益を濫用するしぐさの模範のような光景である。ここまでされると通路側の人間を怒りをこえて自分が惨めに思えさえしてくる。
この日、私の隣の通称“窓側”も道中この醜態を3度ほどさらした。充分予測可能であったからこそ窓側を確保できなかった自分の手落ちに悶々としつつも車はすべりだし、真夏のアスファルトが造る蜃気楼のなかへ流れ込んでいった。


<つづく>