々に感傷的な投稿。例えばお酒を飲むとき―といっても最近はこれが日常的になりすぎて少し反省しないと。もしも大学時代の友達が見たら信じられないかもしれないけど、今の僕はあの頃ひと月かけて消費していた量を平均して1週間、ひどい時には3日ほどで消費してしまっている。最初はえらく小心者。“今日は大丈夫だろうか”なんて考えながら輪の中に入って、チビチビと泡をすする。そうしてそいつが空になるころには態度もでかくなって、大声で笑ったり妙な薀蓄を垂れたりして煙草をふかす。3,4杯目になるとグラスをいじめ始める。そうして氷がキラキラとライトに反射するのを眺めているとスウィッチが入る。


スウィッチ、このスウィッチがいったん入ると途端に全ての意味が掻き消える。たぶん5杯目か6杯目あたりでこのスウィッチが入る。友人たちに囲まれて一緒のテーブルで酒を飲んでるっていうのに、完全にひとりになる。周りの友人に対しても何も感じなくなる。そのくせ帰ろうとする連中にはもう1杯せびったり、逆に早く帰るよう懇願したりもする。混乱した言動とトイレの往復。こうした挙動が顕著になると、もう出来上がりだと思ってもらっていい。それでも自分が大切にしている人達が優しくしてくれるものだから、つい甘えてクセになる。


酒を飲むのはもうやめようか。なんてごくごく最近になって飲み方を覚えたようなひよっ子が、もう何十年も飲み続けてきたような気分を知ったふりをして、そういう自分にこそ酔っていたりする。それでも、自分の胃の中にこうして熱い火が燃え続けているのは感じるし、身体の脇にこの痛みが居座っているのも感じる。朝トイレの床に跪くと、窓から澄んだ日の光が差し込んでくる。そうして時々“どうか死にませんように”なんて祈ることだってあるもんだから、我ながら自分はどうしようもないクソったれ偽善者だなって思う。


そうして二日酔いの喫煙室で煙が脳ミソにじかで触れるのを感じながら、パートあがりの主婦共のそれこそどうしようもない苦労話を左耳で聞くにつけ、すべてが“そういうことなんだ”と理解できるようになってくる。断っておくと、これはすべてが僕に関する的確な記述ではないし、そもそも僕は自分をここまで客観的に捉えるようにはできていない―つまりこれよりも少しだけマシかあるいは、もっとヒドイかのどちらかだということ。自己弁護するならば、これはアル中の日記ではなく毎日売れるかどうか分からないようなモノをいちいち数えているだけの労働者が思い付いた些細ないたずら。ただ少し後味の悪い飲み方をした次の晩はこういうことを考えてしまう労働者もいるという覚え書きのようなもの。

年始のことわり

じように毎年似たことを繰り返している音楽業界、などと延々愚痴を垂れるコラムを読んだが、裏を返せば今年もまたいくつかの素晴らしい音楽と出会えるということになる。聴くに堪えない連中に払う労力は必要経費と割り切って、今日もいそいそとイヤフォンを耳にあてる。この1年で探し方・出会い方には一応の自信がついた。それでも鍛錬の日々は続くが、今年はそこで見つけたものを人に伝えていく努力にも気を配ろう。

Vampire Weekend / Mansard Roof

NYからもう何度目かの超新星。チープな伴奏にアフロ・ビートと小粋なセンスが随所に光る。国内盤には『吸血鬼大集合』などとたいそうダサいタイトルが付けられているのが淋しいが、それを我慢してでも聴いて損なし。


Adele / Chasing Pavements

BBCが毎年発表する新人青田買いランキングで08年のトップに輝いたアデル嬢(ちなみに去年のトップはMIKA)。ノラ・ジョーンズにポップを歌わせたような感じだが、アルバムでもう少し幅を見せてくれれば良くなると思う。


Xiu Xiu / Boy Soprano

読み方はシュ・シュ。少し前の曲だが、新作もこの冬に出るので入れておいた。かなり個性的なバンドばかりが集まったキル・ロック・スターというレーベルを背負って立つバンドで、去年話題になったゴシップもアメリカではこのレーベルからレコードを出している。まだまだ掘れば色々出てくる一押しのレーベル。


Those Dancing Days / Hitten

女性らしさを売りにしていない点が好印象な彼女たち。逆にいつでも水着のような格好でビデオに登場するR&B系の女性シンガーは本当に進歩がないと思う(それを買うリスナーにも問題があると思うが)。いかにもベルセバ意識と言わんばかりの手作りPVには懐かしさを感じられるし、純粋に曲もいいと思う。


あと、映像が全くなかったのが残念だがHarlem Shakesというバンドも注目。マイスペースに行けばEPがそのまま聴けるので一聴すべき。

アトラクション

1月1日の新譜は今日が入荷日だった。今年付けの作品はもう出ないことになる。これでやっと毎年のお楽しみができるのだ。例年ならばできるだけ各誌が発表する前にやってしまうのだが、今年はわざと待ってみることにした。権威ある専門誌が何を選んだとしても『はぁそうですか』と聞き流す余裕があったからだ。それにしても毎年カレンダー付きで通年ベスト特集をやる某誌のランキングは寒すぎた。まるで広告料を積んでくれたレーベル順にレビューが並んでるようだ。まぁそれはそれで市場原理というもの。こっちもだてに1年間ロックを聴いてきたわけではない。なぜか今年はそういう自負がある。


No.5 KATE NASH / MADE OF BRICKS

Made of Bricks

Made of Bricks



私をよく知る人などは、しょっぱなから女性SSWモノで面食らうのだろうが、どこか自分と毛並みが合う気がする。女性SSWの難点はメロディーを重視しすぎる点にあると思う。たいして気の利いたメロも書けないくせに、歌メロが一番強調されるようなアレンジに没頭してしまい、いい声や女性なりの主張が届く前に飽きてしまう。それに対して本作はリズムにも気配りがされていて、曲によればリズムだけでできているものもあるくらい。逆に押韻が追いつかない部分などもあるが、そこは言葉遊びのユーモアでカバー。つまり必死にしがみついている感があって、出来すぎていないところが共感できる。


No.4 THE THRILLS / TEENAGER
Teenager

Teenager



23歳になって、肩こりや腰痛が気になりだして、視力も落ち、時々変な咳までするようになったが、このアルバムを聴けば10代に戻れる。どこへ行くにも軽快で純粋、見るもの全てがまぶしくてキラキラ輝いている。口にするだけ、いや文章にするだけでも赤面してしまうような言葉が次々出てくる。精巧なジャケ写が物語る通りの青春アルバムである。ただし、これは10代が聴いても全く意味がない。ノスタルジーの味を知っていて、帰りたくないと思える酒の席があって、今からでも何か出来るハズだと思ってしまっている成人が聞いてこそ価値がある。


No.3 WILCO / SKY BLUE SKY
スカイ・ブルー・スカイ

スカイ・ブルー・スカイ



鳥ジャケットは自動的に名盤になる。いや、鳥に限らずアニマル・ジャケには名盤が多い。試しにご自分のCDラックを覗いてみるといい。4,5位とは対照的に激シブ路線の3位。ウィルコといえば各パートに卓越したプレイヤーがいることでも知られているが、本作はそうした豊富なテクニックを敢えて持て余すかのごとくシンプルな楽曲で構成されている。随所に職人の手触りは感じられるものの、大筋では高度なテクニックを要することのないつくりだ。これを贅沢ととるか物足りないととるかで評価が分かれるところだが、私はもちろん前者。小難しいことを一切考えさせない安心感と安定感が心地よい。酔った帰りなどは、これくらい気の利いて安定した走りをしてくれるタクシーがいいものだ。


No.2 SPOON / GA GA GA GA GA
ガ・ガ・ガ・ガ・ガ

ガ・ガ・ガ・ガ・ガ



今年最も恥に思ったことが、彼らを今までノーマークでやり過ごしていたことだった。すでに6枚目の10年選手。慌てて過去の作品をひっくり返し、やはり今作がズバ抜けていたことに少し安心したが、それでも根っこは同じでマイペースに良質の作品を作ってきた人達だった。本国アメリカではインディー作には異例のビルボードトップ10入り。今年の米インディー・シーンは豊作で、他にもシンズやモデスト・マウスらがより高い評価を受けていたりもするのだが、それでも上記の2者がポップな作風へとマイナー・チェンジをしている点も鑑みると、彼ら(あとアーケード・ファイア)の成功は異例といえる。音はルーツ色が強く、下手をすれば地味とも取れるが、生音の残し方や妙に下半身にくる物腰、ドスの利いた声などいちいちこちらの琴線を刺激してくれる本作は、仕事柄消耗気味だった私の『インディー・発掘熱』を覚醒させてくれた重要な1枚。


No.1 CLAP YOUR HANDS SAY YEAH / SOME LOUD THUNDER
Some Loud Thunder

Some Loud Thunder



恐らくこのバンドは、人間を超越した霊魂のようなものと会話しようとしている。歌詞は哲学的であるということ意外全く意味不明。1曲目のドラムは雑音のごとく音が割れている。とうとう最後までボーカルがいつ地声で歌っているたのか分からず仕舞い。意味不明な要素だけでできたようなアルバムだが、怒りや切なさ喜びやヤケクソといった感情が手に取るように分かるのも事実。そこで原点に立ち返る。これこそ音楽ではないかと。『なんとなく悲しい』『なんとなく楽しい』『なんとなく…』それが感じ取れれば充分。『じゃあ実際何が?』というのは聴き手の物語であって現実レベルの具体性を音楽が語る必要はない。
実際聴いてみるまで彼らの2ndについて私は勘ぐっていた。しかしそれは1stが重要な部分を極端に曖昧なままにしていたからで、彼らのそうした手法に免疫がなかったためにそうなったのだ。そうした不信や疑いを取り払うのに本作は適切なガイドラインであったし、本作を経験してこそ1stの良さが分かるのも真実。聞けば本作の大部分は1stの時点ですでに手元にあったそうで、彼らがこうした勘違いも見越して仕掛けてきたのならば、相当な切れ者でもある。
ともあれ本作は年が明けても、いやもっと長いスパンで聴き続けるだろう。聴く度に疑問や謎がゆっくりと明らかになっていく。まったくもって、たいしたアトラクションじゃないか。

ポップス

の投稿を書いている時点で気に入らないものが2つある。最近私の下についた新入りと美空ひばりの特番である。前者は完全な個人攻撃だが、後者は偉大な歌手である個人を攻撃しているわけではないので注意していただきたい。しかしながら、恐らく大小合わせて年間数十ほどは制作される彼女の特番にはそろそろうんざりさせられている。毎年莫大なスポンサー料を用意してまで作るのならば、いっそのこと完全盤ともいえる映像集をDVD5枚くらいで作ったうえで日本中の家庭に配ればいいのに、とさえ思ってしまう。


ここまで嫌がる理由を私は一言に要約することができる。選択の欠落だ。毎年作られているこの種の特番が語っていることは概ねこういうこと。つまりどこからか昭和の歌姫と称される天才子役が舞い降りて、彼女の成長とともに戦後の日本国の進化があった。そして彼女の大きな船に乗ってさえいれば、どれだけ引きこもりの現代っ子が増えようが、自分たちの時代『昭和の神話』を押し付けることができる。ソコに見られる構図は1つの巨大な存在と無数の個、ちょうど1つの神を全体で崇拝する宗教に似ている。もはや1人ひとりに選択の余地はない。なぜなら彼女の否定は自分たちの昭和を否定することにつながるからだ。


これはジョン・レノンがワーキング・クラス・ヒーローだった頃とも似ている。彼は自由のために闘い、彼女は国の成長とその記録のために歌った。目的こそ違うが、それらに対して大衆がとった行動は同じ。だが今はもともとそんなに貧しくもなく、闘いはテレビゲームの中にある。そうした世代が『昭和のヒーロー』を見せられ、それとともにあった老人たちの時代を語られても寒気がするだけだろう。


今日もこれと同じような切り口を持った特番があった。そしてその番組は以下のような勘違いも堂々と語っていた。昭和が終わって歌謡曲が消えた。現代において生産されている音楽にはみんなが共感できるものがないと。この一節は私にチャンネルを変えさせる以外に何の意味もないだろう。ポップソングは時代の空気を表現するものだ。それが消えるのは、この地上に誰も生きていけなくなるときだけである。逆に言えばヒトがそこにいる限り、ポップ・ソングもあの特番のような年寄りもノスタルジーも、そしてこの投稿ごとき1人よがりな散文もしたたかに残り続けるのだ。テレビを消した後の静寂は今も昔も変わりないのだから。

最適供給

々に書くと、忘れていた友人が訪れてきたりする。たぶん彼らも書くまでは私の事を忘れていた。『そうではないですよ』と言い返す代わりに、年賀状の風習が存続しているのだろう。だからこそ、出し忘れていた相手への返事を書く正月は気マズイのだ。


出勤。あれから件の猫は見ていないが、もうどうでもいい。それよりも、どうでもよくない仕事にこれから出かけるのだ。加えて昨日ちょっとした失敗をしたものだからいつもより気分が乗らない。失敗とはよくある最適供給の見誤りである。供給の失敗には過大と過少の2種類があり、どちらも致命的だが前者は中長期的スパンで見れば解消できる可能性があり裏ワザもあるのでまだ許せる。問題は後者で、今この時に売る物がないのはどうしようもない。それをやらかしたのだ。いま現在持ちえる最も強いカードで。


ほとんどの小売業がそうであるように、わが業界も既に年末の繁忙期に突入している。先週末、郊外のモール店はファミリー層でごった返した。そうした疲れのなかで『火曜にオーダーすればいいや』と甘い考えを抱いたのが日曜の夜。わずかに残った在庫でも月曜くらい乗り切れると踏んだのが間違いだった。例の苦い休日を経てやってきた火曜日、在庫の底が見えていた。急いで発注するも次の入荷は1日あけた木曜。ここでもう1つの問題発生。新譜発売のある水曜は週のうち最も来客があるという大原則が立ちはだかった。待つのは明らかな売り逃し。


今日、木曜に入荷する予定の物が確実に届くのかをメーカーに確認してみた。売るものを失った人間ができる唯一の仕事だ。幸い明日には届くのそうだ。ついでにメーカーの現在庫も問い合わせると、案の定こちらは切らしていた。メーカーは平気でこういうことをする。いつも思うことだが、自分たちの作品の供給が遅れていることにアーティストたちはどう思うのだろうか。制作の段階で散々メーカーの言いなりになり、やりたくもないようなアレンジを施され、やっとの思いで作った作品が、次はいつ供給ラインに乗るか分からない状況にあるということを。次に起こるのは取り合い。客どうしではなく店どうしのやつだ。これも厄介だ。どうやら年賀状を書く暇はなさそうだ。